こんにちは!名言大好きブロガーのもちきんです。
突然ですが、皆さんは誤解されて伝わってきた名言があることをご存じですか?
人間の言葉とは非常に曖昧なもので、時には本人が本来伝えたかった意図とは正反対の意味で伝わってしまう場合もあります。
今回はそんな本人達の意思とは裏腹に歪んだ形で伝わってきた名言をいくつか紹介していきます!
そもそも名言とは?
まず名言を紹介していく前に、名言という言葉の定義からおさらいしておきましょう。
【名言】
事柄の本質をうまくとらえた言葉。「けだし名言である」「名言を吐く」
(引用:コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%90%8D%E8%A8%80-642947)
つまりすげー言葉です。
誤解して伝わってきた名言集
今回は、名言を遺した方と誤解されて伝わってきた意味と本来の意味という形でご紹介してきます!
ではいってみましょう!!
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」
一万円札の肖像画としても有名な、慶應義塾の創始者であり、思想家・教育家の福沢諭吉が世に放った「学問のすゝめ」の中にある言葉。
人間は生まれながらにして平等、上も下も無いんだよ。という解釈をされている方がいらっしゃるかもしれませんが実はそうではありません。
福沢諭吉は「学問のすゝめ」でこの言葉のあとにこう綴っています。
『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり。
~中略~
されども今廣く此人間世界を見渡すにかしこき人ありおろかなる人あり貧しきもあり冨めるもあり貴人もあり下人もありて其有様雲と坭との相違あるに似たるは何ぞや。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。』
以下簡単な意訳です。
『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言うが、(中略)けれども今現実を見てみると賢い人も愚かな人も豊かな人も貧しい人も貴人も下人もいてそれぞれ差があるので何故であろうか。それは学問を学んでいるか否かの違いである。』
意味合いがだいぶ変わってきますね。
人は生まれながらに平等であるのに差が生まれてしますのは勉強しているかどうかである。と福沢諭吉は言いたかったのです。
また、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という言葉は福沢諭吉が生んだ言葉ではないこともご存じでしょうか?この言葉はアメリカの独立宣言からの引用です。
詳しくはまた別の記事で書こうと思いますが、福沢諭吉は政府の仕事が良くないのは国民が賢くないからであるという様な主張も残しているとされています。
様々な観点から見て、皆に勉強しましょうと言いたかったのであろうと思われます。
「天才は1%のひらめきと99%の努力」
電話機や蓄音機、白熱電球などの発明で有名なアメリカの発明家/起業家のトーマス・アルバ・エジソンが遺した言葉です。
この言葉は、努力が大切であるという意味で伝わってきていますが、実はそうではありません。エジソンはこんな言葉を遺したと言われています。
「私は1%のひらめきがなければ99%の努力は無駄になると言ったのだ。なのに世間は勝手に美談に仕立て上げ、私を努力の人と美化し、努力の重要性だけを成功の秘訣と勘違いさせている」
(引用:エジソンの名言「天才とは1%のひらめきと 99%の努力である」は誤訳だった?彼が本当に伝えたかった事とは? : NewsACT http://news-act.com/archives/20749242.html)
つまりエジソンは1%のひらめきがなければ99%の努力は無駄になると伝えたかったことになります。
ひらめきだけでもダメ、努力だけでもダメ。
沢山の失敗をして数々の成功を収め発明王と言わしめた、エジソンらしい説得力のある名言ですね。
「お客様は神様です」
昭和を代表する歌手の一人である三波春夫が遺した言葉。
これは、客は金を払う立場なんだから、神様のように扱うべきという様な意味合いで伝わっていますが違います。
生前、三波春夫はインタビュー取材などでよく質問を受けることがあり、その度にこの様にコメントしていたと言われています。
『歌う時に私は、あたかも神前で祈るときのように、雑念を払って澄み切った心にならなければ完璧な藝をお見せすることはできないと思っております。ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです。また、演者にとってお客様を歓ばせるということは絶対条件です。だからお客様は絶対者、神様なのです』
(引用:三波春夫オフィシャルサイト https://www.minamiharuo.jp/profile/index2.html)
三波春夫にとってのお客様とは聴衆、オーディエンスのことであって飲食店や商店のお客様ではないとうことです。
自身の信念を告白したそれがクレーマー御用達の言葉になってしまったことを考えるといたたまれませんね。
「初心忘れるべからず」
誰しも一度は耳にしたことがある言葉だと思います。これは猿楽(現在の能)を大成したことで知られる世阿弥(ぜあみ)が遺した言葉です。
最初の志や謙虚さを忘れてはいけないという様なニュアンスの解釈をされていませんか?
世阿弥が50代半ばに著したとされる『花鏡』という本に次の一節があります。
是非の初心忘るべからず。
時々の初心忘るべからず。
老後の初心忘るべからず。
(引用:花鏡)
世阿弥のいう初心とは最初の志や謙虚さではなく「未熟さ」、つまり、初めた頃の苦い経験のことなのです。
初心者の頃の未熟さを忘れないようにし、「初めの頃の屈辱を味わいたくない」と思うことにより更に先に進めると世阿弥は説いていたとされています。
おまけ
ここでは、言葉の意味は誤って伝わっていないが、後世に続きが追加された言葉を一つ紹介します。
「百聞は一見に如かず」
人から何度も聞くより、一度実際に自分の目で見るほうが確かであり、よくわかる。
(引用:goo 国語辞書 https://dictionary.goo.ne.jp/jn/187344/meaning/m0u/)
元々「百聞は一見に如かず」という言葉は後漢(中国)の学者/文人である班固(はんこ)が著した「漢書」の趙充国という逸話が由来とされています。
この言葉に後世に続きが加えられ、
「百聞は一見に如かず」
「百見は一考に如かず」
「百考は一行に如かず」
「百行は一果に如かず」
となりました。
「百見は一考に如かず」とは百回見ても一回も考えなければ意味がない。
「百見は一行に如かず」は聞いても見て考えたことに対して行動に移さなければ意味がない。
「百行は一果に如かず」は多く行動しても成果が出なければ意味がない。
繋げると、聞いて見てそれについて考えて、行動して成果を出すことが大切という意味になりますね。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
こうして見ていると、話を最後まで聞いていなかったり、冒頭のみを伝えてきたという感じがしますね。
聞く人は目の前の人の本当に言いたいことはなんなのか、また、話し手は言葉は必ずしも自分が伝えたい様に伝わるとは限らないということを意識してコミニケションを図ることが大切なのかもしれません。
ではでは、また次回の記事で。